「神話を忘れた民族は100年以内に滅びる」
イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーはかつてこう語ったそうです。

ところで日本は、戦後、神話を社会から完全に流竄(るざん)してきました。
戦後70年を経て、日本はいま戦後最大の危機に瀕しています。
しかしその危機を危機と認識できないところに、最大の危機があるというか…。
そうか、トインビーのいいたかったことはそういうことか…。
さて
そういう環境で育ったわたしがインドで暮らしはじめたのが2008年の末。
そのとき、わたしが遭遇した違和感は、
神話があたかも真実であるかのように語られ、
人々の生活に密接に寄りそうインドの日常でした。

インドの一年は実に多くの祭事で彩られています。
ナヴァラトリー、ホーリー、ディワーリー、グルの日、兄弟の日、…。
それぞれの祭事の背景には、ストーリーが存在します。
それぞれのストーリーにはバリエーションがあって、かならずしも一貫しないんだけど、
その根拠は多くの場合、「プラーナ文献」と呼ばれる古典群のなかに求められます。

インド人の生活は、現実と神話のパラレルワールドのはざまで営まれているのです。
ところで
おそらく、神話の神話たるゆえんは、
そのストーリーの深み、含蓄にあるはずです。
たとえば
アルダナーリーシュヴァラ(अर्धनारीश्वर)のストーリー。
創造神ブラフマー神が最初に人類を創造したとき、人々はみなすぐにブラフマーの世界に戻ってきました。
そこでブラフマー神はシヴァ神に頼んで、女性を創造し、性の営みを与えました。
すると、人々はセックスに耽り、子を産み、子孫繁栄していきました・・・。
そういうストーリーです。
そのとき
女性を創造するときにシヴァ神が変身したのが
アルダナーリーシュヴァラ(अर्धनारीश्वर)でした。
アルダナーリーシュヴァラは、
男性の半身と女性の半身からなる両性具有の神でした。

その女性の半身から、人類初の女性が創造されたとされます。
※ストーリーには種々バリエーションがあるようですね。
ふつうなら
「ふ~ん、かわったストーリーですねぇ~」
で終わるところです。
でも
現代哲学の文脈でとらえなおしてみると、けっこう面白い。
たとえば
ジョルジュ・バタイユの命題でこの神話を解釈してみましょう。

バタイユはいいました。
『死』をもとめるところに『快楽(エロス)』が生まれる

「 死は、快感(エロス)だ」とバタイユはいうのです。
(「芸術は爆発だ!」は岡本太郎だけど…)
それは脳機能科学の知見とも調和的です。
死を察知した脳はドーパミンやβエンドルフィン、セロトニンらの脳内伝達物質を多量に出し”超気持ちいい状態”にします。これは自然死、他殺、自殺を問わず共通する幸福感です(苫米地英人)
死の瞬間に分泌されるドーパミン量は
セックスに比べて何と100倍から200倍もあるといいます。
そう
ブラフマーが最初に創造した人類(原人)は
そのことを知っていました。
だから
不自由な身体を脱ぎ捨てて、
もと来た世界、ブラフマーの世界へと
急いで帰還していったのです。
それは
最初の死(自殺)でした。
それは
スピリチュアルの世界では、
サマーディー(三昧)というのかも知れません。
いずれにせよ
最初の人類は「生の継続」よりも「生の断絶」(死)を
積極的に選んだのです。
そこでブラフマーは一計を案じました。
「死の快感」に匹敵する快感を創造し、人類に与えました。
それが「性の営み」によってもたらされる「セックスの快楽」(エロス)でした。
人類は、神の計らいにまんまとはまりました。
人類は、性事に耽り、もうブラフマーの世界に帰還しようと思わなくなりました。
セックスの快楽は、死の快楽を忘れさせたのです。
これを、マーヤー(幻影)と呼びます。
このマーヤーに幻惑された人類は、
輪廻の輪に絡めとられ、
死と再生を繰り返すようになりました・・・。

てか
おしまい